樋口真吉とは
 幕末の志士たち
 年譜


   
   
 
     
樋口真吉と幕末の志士たち    
坂本龍馬(1835~1867)    
龍馬は16歳のとき父八平の代理で、藩営の四万十川改修工事のため中村入り。
この時から真吉との親交が始まる。
龍馬が頻繁に出入りし、敬服置くあたわざる人物、県東部安田町住む郷士、高松順蔵(=長姉千鶴の夫・剣士で文人として知られた)と真吉は知音関係にあったから、この際事前紹介があったとみられる。

龍馬は脱藩の前年1861年(27歳)秋、剣術修行を名目に藩外に出たが、これを真吉は「坂竜飛騰」と日記に記した。
       
坂竜飛騰
翌年春、龍馬脱藩敢行。
文無しの疲弊し切った彼と真吉が大坂市中で遭遇し
「逢竜馬贈一円」とある。
竜馬の生涯の動静を温かい目で見守り続け、記録に残している。

真吉は長崎滞在により豊富な海外知識があった。
幕末砲術は舶載された大砲という形で現われる。
必然的に船舶知識も豊富になる。
真吉の得た情報は龍馬に伝えられた。
海外事情、長崎の経済情報、船の知識。
剣術修行で廻国した際の諸藩情勢。
龍馬の海に向けられた視線、立脚する視座は真吉が与えた。

圧巻は、暗殺される前月に龍馬の出した手紙。
「樋口真吉に頼んで、安全な隠れ家を探してくれ。」と記されている。
暗殺されたとき両者の住まいは100mも離れていなかった。
惨劇の模様も真吉の筆により残されている。
真吉は龍馬の伯楽である。

逢竜馬贈一円
< 龍馬の手紙より
今の居場所が危険なのは分かっている。
樋口眞吉に相談して安全な隠れ家を探してくれ。
    龍馬
     
龍馬暗殺当日の真吉の日記「日新録」>
ジョン万次郎(1827~1898)  
土佐清水浦の漁師で、数奇な運命に翻弄され漂流。
アメリカの捕鯨船に救出され、本土へ。
勉学に励んだあと帰郷の念止み難く、危険を冒し琉球に上陸。
鹿児島、長崎を経て土佐に帰国。
折から黒舟来航でメリケン語堪能者として脚光をあびる。
万延元年(1860)には最初の遣米使節として勝海舟、福沢諭吉などと渡米。
維新後は捕鯨に専心する。
琉球上陸後、鹿児島を経て長崎で幕府奉行所の取調べを受け「嫌疑なし」として放免される。
この当日、真吉は万次郎と接触、生々しい帰国報告を受けている。

同じ幡多地域出身者として幡多弁の話者として打てば即座に響き合う会話があったにちがいない。土佐藩の万次郎受け取りの使者は翌日長崎に現われ、10日ほどの行程で土佐に帰る。
聞書き作成に当たり、藩は書き役として河田小龍を任命する。言葉で表現できないものに絵師としての技量を期待した。

真吉は戊辰戦争の繁忙期に万次郎と旧交を温めている。又河田小龍とも交際があった。
晩年、万次郎と小龍は義絶状態にあったとされるが理由は判然としない。
万次郎は「君子交わりを絶ちて悪口を放たず」の態度を崩さなかったらしい。
         
西郷隆盛(1828~1877)・大村益次郎(1824~1869)
深い交際はないが、西郷とは藩情勢の情報交換、時局感の擦り合わせ。

大村とは戊辰戦争戦費の調達について新政府の全面支援の確約を取り付けた。
 
中岡慎太郎(1838~1867)・間崎滄浪(1834~1863)
中岡は中村・四万十川河口の船港「下田」に頻繁に来ていたという古老の話が残る。
又慶応3年は、春先から暗殺直前まで頻繁に接触している。

中岡は板垣退助のような粗暴な倒幕論ではなく、地歩を固めた緻密な状況判断に基づく「倒幕必至・不可避論者」であった。
そのために薩長密約などを着々と準備を進めてきた。

間崎は真吉を崇拝すること神の如しであった。
間崎の父は中村の出身であったし、真吉は、間崎の人格行動に深い影響を及ぼした。
諸書に詳しい。