樋口真吉とは
 幕末の志士たち
 年譜


   
   
 
     
樋口真吉とは(1815/11/8〜1870/6/14)    
幕末から明治政府創設時にかけて活躍した土佐(現高知県)の人物。
土佐中村(現四万十市)に中村郡奉行所足軽(先遣り)樋口信四郎の長男として生れる。
弟に樋口甚内がいる。
幼少の頃から父に就いて剣術・砲術を学ぶ。長じて学問に志す。
樋口家は本来高知の大津に住む郷士であったが、信四郎が家督相続できなかったため、武士身分を獲得して、剣と砲の道を究めるために藩の足軽採用試験を受験、合格した。

足軽としての最初の赴任地が中村であった。(最終的には終生中村に留まり中村の土となった)
樋口真吉は信四郎の郡奉行所在勤中に官舎で誕生。母は高知の坂本氏の娘である。
身長は6尺近く(約180cm)、痩身の偉丈夫であった。
       
藩のお家流ともいうべき「無外流」を父と共に修めたが、流派の行き方に不満を持ち、父と連名で質問状を高知城下の高弟に送った。高知から届いた返事は「無外流 刀術・槍術とも破門、以後父子とも当流とは無縁」という内容であった。
父子協議して、当時名流の名が西日本全域に響いていた筑後(現福岡県)柳川の「大石道場」に留学することを決める。費用は父の農作業、母の機織そして家族の粗食で捻出した。

柳川留学は道場内修業僅か30日余りで終った。
免許皆伝を得たのである。異例の短期間での皆伝であったため、大石流幹部から噴出した批判を、開祖大石進は「この少年は日本一である。」の言を以って封じた。
中村での文武の修行がすでに未踏の域に達しており、それを師進が認めたのだ。
大石神陰流免許皆伝の書状
         
帰郷後中村に道場を開き、幡多郡内の郷士、庄屋、富裕農民層を主に、子弟の教導にまい進する。
快活で度量大きく諧謔に富む性格であった。人と交わるに相違点ではなく共通点を見出し、相和し互いに切磋琢磨するという態度をとった。
厳格な教条主義ではなく暖かい家族関係ともいうべき指導法である。
このため門弟数は1000人近くに達した。

免許皆伝後も柳川を含め九州には頻繁に出掛けている。
筑後の大石道場に再々足を運び手直しを受け、後輩剣士の指導にも当った。
当時大石道場には西国雄藩の志を持つ才子が集まっており、長州の来島又兵衛らも樋口真吉の指導を受けた。
薩摩に入国したという記録はないが、それ以外の土地、特に長崎では尋常ならざる熱意をもって見聞を広げた。

四国、九州、中国、畿内そして東海道と旅を続け、国々の光を観じ、人物との出会いを楽しんで自己啓発に努めた。
大坂では篠崎小竹に漢籍を、砲術は長崎で高島秋帆の息子に、江戸で佐久間象山の指導を受けた。
旅の人でもあった。

下田砲台(真吉描)
モルチール砲(真吉描)
こうした文武の研鑽と諸国遍歴を通じて藩内外に大きなネットワークを構築した。
彼の学識は自然に藩上層部の知る所となり、折から異国船打ち払いのため藩内各所に砲台を構築する構想が立案されると、樋口真吉は師田所左右次とともに須崎以西の砲台建設に活躍した。
旧中村市なら下田に砲台跡が郷土史家の尽力により保存される。
思想的には長崎での経験から「開国不可避」を悟り、結果としてその障害となる幕府は除かざるを得ないという、現場を踏んだ空理空論ではない「開国・倒幕論者」であった。
砲術と剣術を兼修したことから、人格陶冶と論理性が自然に身についた。

土佐勤王党内では顧問格ともいうべき超越した別格的存在であった。
彼自身は盟約に記名していないが、門弟達が加盟することには全く干渉しなかった。
彼の門下生からの脱藩者は僅かに3名であり、盟主武市派との脱藩者頻出と好対照をなす。

土佐の藩主が異国から来た「鉢植え大名」であり、藩内侍層が二層分離していたという特殊事情もあるが、挙藩勤王を標榜して過激行動に走り結果壊滅に瀕した武市派とは大きな違いがあった。
樋口真吉は緩やかな共同体を目指した。とにかく共通点で連帯し、相違点は徐々に擦り合わせて妥協点をみいだせば良いという方向である。

慶応4年(1868)正月の伏見の戦いでは参戦を実践し、自ら砲車を率いて活躍した。
引き続く錦旗拝領、四国侵攻そして戊辰戦争でも目覚しい動きをした。

遣倦録(日記)
日新録(日記)
状況判断が的確であり、冷静沈着、臨機応変の才を評価され、高齢(54歳)ということもあり、小荷駄裁判役(軍需物品・人員調達送付)を拝命して尽力した。

明治元年11月 凱旋、土佐へ帰る。
明治2年 薩長訪問。
明治3年 大納言徳大寺家の公務人拝命。
同年6月 江戸において逝去、享年56歳。
墓は麻布徳生寺にあったが、のち弟子達により中村の土生山(はぶやま)に改葬。

高潔の仁であった。
高感度、高淡白、高安定を特長とする不世出の偉人であった。
自己顕示欲は感じられない。龍馬との交遊も誇るところがない。
「漢(おとこ)は生涯に一事をなせばよい」、その一点を凝視すれば、得意も失意もない。
ただ歩むだけだ。淡々と歩む。大股で悠然と急ぐ。

剣は超一流。
身分は足軽(少し昇進して徒士)。
漢詩も読む、絵筆も取る。
酒も好きで時には二日酔もする、海釣りも鮎釣りも楽しむ。
ユーモア精神旺盛、「西洋の船は飯炊くハガマの羽根を取ったような格好じゃ。」
冬日照時間の短い東海道を一日16里(64km)歩く。剣客で健脚。

愛妻家で、家族引き連れての転勤族。行く先々で友達の輪を広げる。
気難しいヤツもいつの間にか談笑の輪に引きずりこむ話芸の巧みさ。
座禅もする、禅坊主と大酒を飲んで公案議論。
間口のひろい、引き出しの多いおとこ。

身分が低いから藩の負担による出張、研修はまれ。
すべて自費支弁、活動資金は両親の献身、家族ぐるみの応援。
さらに多額を要するときは、豪商(中村:木戸庄蔵)から鎧と短銃(6連発)を担保に100両を借り受ける。そのとき庄蔵言う「ワシは赤穂浪士を応援した商人の気分でやっているよ。(笑)」
中村の町衆にも支えられた樋口真吉。

漢は一仕事、終れば去るがいい。歴史の海に消えるがいい。
樋口真吉を偲ぶには四万十河口の下田の高台に立てばよい。
潮騒、浮雲、潮の香り。

人生 一片の雲 寄せては返す 波の音

       
         
 
 

湿板写真
1868(慶応4年)撮影
四万十市立
郷土資料館蔵